昭和五十四年三月二十四日 朝の御理解


御理解第十八節
「此方の事を神神と云うが此方ばかりではない、此の所に参って居る人々が皆神の氏子じゃ、生き神とはここに神が生まれると云う事で此方がおかげの受け初めである、皆もその通りにおかげを受けられるぞ」


 十九節に「金光大神は形が無うなったら来て呉と云う所に行ってやる」と云う御理解がありますが、これは天地と同根とも云われる天地金乃神様と一緒になられた姿、金光大神の魂が、形が無うなったら、どこえでも来て下さるというのではなくて、天地の中に云うならば同根とまで云われなさる。その内容がそこに云うならば天地の仂きをおこす。いわゆる天地が自由になるという程々の天地の親神様が金光大神任せになって下さる程々の仂がおこる。ということであろうと思うのです。ね。
 教祖様でもやっぱり人間 金光大神なんですから。ね。人間の魂があちらこちらにうろついてそして助けて回っておられる、といったような事は出来ない、というのが 合楽で云う霊観ですから、ね。けれども金光大神と唱えれば、そこに例えばおかげが頂ける、と云うのは、金光大神が天地金乃神と同根になって、天地の仂きを ですね、天地が金光大神のために自由になって下さる程々のおかげが受けられる、ということだと思うんです。
 そこで十八節の、生神とはここに神が生まれる、ということで、と云うのは、私共が不平もなからなければ不足もない、只 喜びだけでしかない。
 云うなら 安心の大みかげを頂けておる時、ね、そういう時がもうすでに生神が誕生しておる時だ、ね、だからそういう心の状態は、その いばらくの時間であっても天地と同根といったような時ではないだろうか、だからおかげが受けられるのではなかろうか。
だから 天地が自由になる というような仂きがうなれてくるのではなかろうか。というふうに思います。金光大神はそういうおかげの受け初めであられる。ということ。
 そこで 私共の信心生活の中に まず 何と云うても人の足許が見えぬようにならなければならない、と云うこと、ね。人の足許が見えるときには、ね。月並な話ですけども、ね、自分の心の破れから相手の足許が見えてるんだ、ということなんです、ね。あっ 自分の心が破れとる、そこからのぞいておる自分に気づかせてもろうて、自分の心の破れの方を改めていくと、いう生き方。
 例えば子供やら身近な者の あり方と いうものはより良かれがし と。例えば 思う日ら思う程 云うなら 足許が見えるわけですね。
 そんなこっちゃ幸せになれん。そんな事では おかげにならん、と思うから 見える。だからそういう私共は 見えますから、その見えた時にはです 云うなら 子供の姿なら子供の姿そのものがね、自分の姿だと気づかせて頂く事だと。そういう限りない精進がですね、生神をめざす手立てだ、というふうに思うのですね。
 例えば、人の非がやはり眼につく、と云うときにはですね、それを自分の心を汚す事にせずに、ね、祈ってあげれれる心なんです。ね、そういう精進なんです。まずは、人の足許が見えるときには 自分の心の破れだ、とわからせてもらう、または 見える時には それがそのまま 自分の姿だ、と思うて反省していく。それでも尚且つ見える時には、ね、その事を神様が祈ってやれ、と云われておる時だというふうに思うて祈らせて頂くような心の状態をいよいよ身につけていく以外にはない。そういう精進が、ね 生神への精進だと。もう だからここんところへ ま 極まることになるのではないでしょうか。
 ところが云うならば 人の足許が見えて見えて仕様がない、そこに自分のいよいよ救われ難い自分だな、と、云うならば屑の子の自覚に立たせてもろうて、精進していく。
 例えば、大蒜の臭いというものはやはり初めの間は誰でも鼻もちならない。けれども自分自身が大蒜を食べならい おいしい事がわかってまいりますと、ね もう臭いが臭いを感じなくなる。天地の親神様と一体になる、ということはそういうことではないでしょうか、ね。
 例えば どういうものが眼にはいってきてもどういうものを見ても聞いても、ね 心が穏やかであり 喜びでありどんなに強い臭いのものが入ってきても、こちらがその臭いをこちらも持ってる、という事がわかった時にです。そこに一つのその人とのその事柄との一体化、それがそのまま神様と一体化、ね。大蒜を、例えば大蒜ということは 人の肉、肉体というふうに頂いてもいいでしょう。
 私ともが魂だけの世界、いわゆる肉体をなくした世界で云うならば 天地の親神様の心の中に入っていけれる天地と同根というのはそういう大蒜の臭いを臭いと感じないおかげを頂いたときに来てくれというところに行ってやる、というような仂きもおこし得れる霊になれれることではないだろうか、ね。私とも魂そのものはですね、そういう自由無※な仂きを起こし得れる力というものは何にもない、ね。合楽理念をもってするとそういうことになるのです。徳を受けた霊はどこに行っても仂きが出来る、と云うのじゃない。
 天地の親神様のお心を自由にするほどの ね、心というものがなされた時に天地の仂きがそこに、いかにもそこに来て仂きが出来る、いわゆるご先祖のおかげでとか、ということになるのじゃないだろうか、ね。だから 教祖の神様が形が無うなったら来てくれ、と云うところに行ってやる、といえるほどの信心、それはどこまでも 只特別な修行をしたからといったような事で、どこまでも天地の心とする行き方、天地と同根と思われる程のところ、いうならば私共がこの世にある時にです、どういうものを見てもそれというならば同一のものである、と見れれる行き方、ね。どんなにいわば悪い事を見ても自分の心を汚すだんじゃない。そのそういう悪い心が自分にもある、とわかった時にそれはもう悪い事とせめるようなことにはなってこない、ね。
 どんなものを見てもです。それが、ね そういう自分の心の破れからそれが見える、とわからせてもらってあっ、これは自分の心の破れからのぞいてるんだ。というふうに気づかせて頂いて、自分の破れた方を修理していく。改めていく。そういう行き方から段々云うなら大蒜を食べならい大蒜の臭いを臭いとしない同じ行き方が出来る。そういう行き方が出来る。またそういう行き方を願わして頂いて初めて、ね生神とはここに神が生まれる事である、そういう心の状態が心の中に感じられる時に生神の芽が出た時であり、それをいよいよ育てていくことだと思うんです。
  今日は北野の中村さんのところの何十年間か続いてきた宅祭の日でございますけれども、本当に精進するということ。例えば中村さんが、中村喜久代さんという人が喜びいっぱいの時にはそれこそ喜び久しい代という事になるんです。けれどもその喜びを取ると後はもうくよくよということになる、と。これは中村さんが頂かれたお知らせですけれどもです、ね。私共が云うなら喜びを取ったが最後、もう普通の人間、やはりくよくよも云わんならん。人のそうも見えてくる様になる、ね。喜久代の世界というものが私はね、いわゆる不平不足を云うわんですむどころではない。相手が祈れれる。自分が拝めれれる。自分が改めていくと云う生き方を身につけていくところに不平不足はなくなってくる。私はどうでもね、その結局合楽理念に基づく行き方というのは結論すると生神をめざすことだ、ということですからそういうもう日々の生活の中に人の足許が見える、ね。またいやな事を聞く。そういうチャンスをのがさずに私共の生神への精進、ね。そういうものがなくなる修行をさせて頂いたらそれに取り組ませて頂いたら誰でも出来るんだ、と。
  教祖様はここに教えておられるわけです。この方がおかげの受け始め、みんなもその通りのおかげを受けられるぞ、とおしゃっておられる。だからどうでもその事に私共が精進させてもろうて、ね。これをおろそかにせずに人の足許が見えてもそれが心が穏やかであったりまたかえってお礼を云えたり、またはそれを祈ってあげたりというような心のくり返しをしていくうちにです。そういう事が楽しうなってくる。云うならば、大蒜が美味しいものになってくる、ね。その大蒜がいよいよ食べならいじ文のものになった時にもうそこには大蒜の臭いはない、という程の心の中への生神を感じる。そういう心があの世までも持ち込まれて行って初めて来てくれというところへ行ってやる、と云えれる程の内容がととのうてくるのではなかろうか、と思いますね。
                                                    どうぞ